情報のコーディネーター  第122号
         
           平成30年11月1日発行
                  窮すれば通ず。 情報こそ反転の力なり。 コトバで心の壁を破れ。

                          今回の目次
                     □ 源頼朝と「本領安堵」

  安堵の「堵(ど)」とは、垣・囲いあるいはそれらに囲まれた居所というのが元々の意味でしたが、
平安時代末期以降、財産の安全が保証された状態や不安がなくなった心の状態、つまり安心を意味
する言葉になります。

 「本領安堵」とは、先祖が切り拓いて一所懸命に管理した来た土地の所有権を開発領主に保証して
安心させることです。
これを初めて行ったのが源頼朝であり、最初の本領安堵に預った武士は足立遠元です。

  足立遠元は、武蔵国足立郡に本拠を置く豪族藤原遠兼の子で、平治の乱では源義朝軍に参戦し、
頼朝挙兵後には武蔵国に入った頼朝の下に一早く馳せ参じています。  

  これが縁で、頼朝は武蔵国足立郡を遠元に「本領安堵」して、坂東武者では一番乗りの「本領安
堵」となったのです。

  藤原遠兼の弟に安達盛長がいます。 盛長は頼朝の乳母の比企尼の娘婿で、流人の頃から頼
朝に仕えています。  京の事情にも明るい盛長が、本当の武士の世は「本領安堵」によって来ると
頼朝を悟らせた可能性はあると思います。

  頼朝が伊豆の蛭が小島(旧韮山町、現伊豆の国市)で20年間流人生活を送っている時、京では平
家一門が隆盛を極めます。

 1167年には清盛が公卿の最高ポストである従一位太政大臣にまで昇進しています。 これまで
この地位に就いた武家はいません。

  やがて、後白河法皇の院政との対立が目立ち始めて、清盛は1179年11月にクーデターを挙行して
院政を停止し、諸国66ヵ国の内32ヵ国を平家の知行国としてしまいます。

 これはもう国家反逆罪に等しい暴挙ですから、1180年5月には平家追討の令旨が発せられることに
なります。

  さて、この知行国ですが、「本領安堵」とは全く違います。  
知行国とは、任期限定で国司の推薦権と税の徴収権を与えるものです。
 
  当時、土地の5割が寄進地系荘園になっており、それは藤原氏と有力大寺院に富が集中するシス
テムでした。  開発領主は国司による土地没収を恐れて藤原氏や有力大寺院に寄進して、地位の
不安定な荘官(荘園の管理人)として生きるしかありませんでした。

 一方、朝廷にも富が流れず、中級以下の貴族への給与も支払えない程の財政難であったといいま
す。
 
  知行国とは、院政期に藤原氏の権勢を弱めるため、院近臣を知行国主にし国司には中級以下の
貴族を送り込んで院近臣や朝廷に富が流れるシステムにしたものです。

  しかし、その地位は任期期間に限られ不安定でした。 永続的な土地所有権も地位の世襲も認め
られていませんでした。

  クーデター後の清盛の権力の形を、鎌倉幕府の先行形態としての福原幕府と呼び学者がいます。
しかし、清盛には「本領安堵」という発想がありませんでした。
地方から富を収奪するシステムの中心が、藤原氏から平家に代わっただけでした。

  頼朝が坂東武者を一つにまとめて平家を倒し江戸幕府滅亡まで600年以上も続く武家政権を樹立
出来たのは、「本領安堵」という武士の本懐を実現したからです。


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